平成14年(2002年)06月04日 火曜日 設置(葛原親王没後1149年目)
延暦五年(786)降誕。
父は、第五十代・桓武天皇(山部親王)、母は夫人多治比真人真宗(多治比真人長野の娘)。
同母弟妹に佐味親王、賀陽親王、大野親王、安濃内親王、因幡内親王。
異母兄に、平城天皇(安殿親王)、長岡岡成、伊予親王、良岑安世。
延暦五年誕生の異母兄弟として、嵯峨天皇(神野親王)・淳和天皇(大伴親王)。
『平家物語』冒頭部分で、「桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王」として、広く知られる。
初名は、高明親王。
葛原親王の降誕地を平安京とする説があるが、延暦五年(786)時点では、平安京の前の都である長岡京である。
※長岡京
延暦三年(784)
四月十六日 遷都のため藤原小黒麻呂を遣わして山背国乙訓郡長岡の地を視察する。
六月十日 長岡京の造営を始める。
七月四日 阿波・讃岐・伊予三国に山崎橋を造る料を進上させる。
十一月十一日 長岡京に移る。
延暦五年(786) 葛原親王降誕。
延暦十三年(794)十月二十二日 平安京に遷都。
| 延暦五年(786)誕生の三皇子 | |||
| 葛原親王 | 淳和天皇 | 嵯峨天皇 |
|
| 初名・諱 | 高明親王 | 大伴親王 | 神野親王 |
| 生 母 | 夫人多治比真人真宗 (多治比真人長野娘) |
夫人藤原朝臣旅子 (式家・藤原百川娘) |
皇后藤原朝臣乙牟漏 (式家・藤原良継娘) |
| 降 誕 | 延暦五年(786)日時不明 | 延暦五年(786)日時不明 | 延暦五年(786)九月七日 |
| 元服日 | 延暦十七年(798)四月十七日 | 延暦十七年(798)四月十七日 | 延暦十八年(799)二月七日 |
| 延暦二十五年 五月九日時点 |
四品治部卿→ 四品大蔵卿に |
三品式部卿→ 三品治部卿に |
三品弾正尹に |
| 崩御・薨去 | 仁寿三年(853)六月四日薨去 | 承和七年(840)五月八日崩御 | 承和九年(842)七月十五日崩御 |
| 備考 | 桓武平氏の祖。 『日本文徳天皇実録』では 「桓武天皇第三皇子、 嵯峨太上天皇の兄」とする。 |
第五十三代天皇 | 第五十二代天皇。 |
元服式の順・・・
延暦十七年(798)四月、殿上において大伴親王(後の淳和天皇)と葛原親王元服。
神野親王(後の嵯峨天皇)の元服はその後。
通説では、葛原親王は、桓武天皇第五の皇子であるが、
→安殿親王(平城天皇)・伊予親王・神野親王(嵯峨天皇)・大伴親王(淳和天皇)・葛原親王
即位順、生母出自、元服順を勘案すると・・・
→安殿親王(平城天皇)・長岡岡成・伊予親王・良岑安世・葛原親王・大伴親王(淳和天皇)・神野親王(嵯峨天皇)
の可能性が考えられる。
葛原親王の官職
四品 治部卿
大蔵卿 弾正尹
三品 式部卿 大宰帥
二品 中務卿兼大宰帥
二品 行弾正尹兼大宰帥
二品 常陸太守 式部卿
一品 式部卿 大宰帥
一品 上野太守 常陸太守
などを歴任。
延暦二十五年(806)三月十七日 父・桓武天皇崩御(柏原山陵)。
弘仁十四年(823)六月十一日 母・多冶比真宗没
天長二年(825)上表して、子の高棟王らに平朝臣を賜る。
葛原親王は、伝えるところ、幼い時から聡明で史伝を歴覧、生活を律し、驕ることなく、旧典にことごとく練達し、朝廷に重用され、輦車に乗って内裏に入ることを許可されていた。
仁寿三年(853)六月四日、六十八歳で薨去。葛原親王の遺命により、朝廷の監喪・葬儀を辞退した。
| 京都府 | ||
| ○葛原親王屋敷跡 | 京都府 乙訓郡 大山崎町 円明寺 字若宮前 |
葛原親王の屋敷跡の伝承あり。若宮前公園内(京都学園幼稚園となり)。 阪急バス小泉橋下車(小泉橋止まり多し) |
| ○葛原親王塚 | 京都府 乙訓郡 大山崎町 円明寺 字葛原 |
字葛原(かつらはら)に、葛原親王の墓所(丸山という古塚)伝承あり。 久保川の農道の橋として使われていた、伝・石棺の一部により石碑が立てられる。 葛原児童公園内(県道大山崎大枝線・10近く)にあり。 第三浄水場近く。 阪急バス小泉橋下車(小泉橋止まり多し) |
| ○長岡京 | 京都府 乙訓郡 大山崎町・ 長岡京市 |
葛原親王が生誕した延暦五年(786)時点の宮都は、長岡京。 延暦十三年(794)の平安京遷都前まで、葛原親王は長岡京内で生まれ、 平安遷都時まで過ごしていた可能性大。 晩年、旧長岡京内に葛原親王は屋敷(京都府乙訓郡大山崎町円明寺字若宮前)を構え、 薨去後、屋敷の近くに埋葬(通称丸山。京都府乙訓郡大山崎町円明寺字葛原) される。 |
| ○平等寺 | 京都府 京都市 右京区 |
伝・葛原親王により建立。現在、毘沙門堂門跡に吸収。 位置は明確ではないが、広隆寺の西とされ、嵯峨千代ノ道町内に求める説あり。 平等寺が荒廃した後、広隆寺の領となる。寺領は、紀伊国石垣庄。 一説に、貞観元年(859)正月、葛原親王の子である平高棟により、 山城国葛野郡の別墅を道場となし、平等寺と号することをを奏請して 許可されたのがはじまりともいう。 ※広隆寺の西・太秦桂ヶ原町が旧地か? |
| ○広隆寺 | 京都府 京都市 右京区 太秦蜂岡町 |
『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記』の広隆寺内諸堂諸院事に 平等寺・・・雖在寺外。焚毀以後造立寺内。 丈六千手千眼像・・・葛原親王俊願像之。 四所霊像各一體・・・霊験記録有之。 平等寺が荒廃した後、広隆寺境内に平等寺が移され、 丈六千手千眼像及び四所霊像、平等寺領も広隆寺の所有となる。 |
| ○広隆寺桂宮院 | 京都府 京都市 右京区 太秦蜂岡町 |
広隆寺境内の西にあり。 八角円堂(夢殿建築)の堂宇。 聖徳太子ゆかりの楓野別宮の跡といわれている。 広隆寺の西に位置していたといわれる平等寺との関係は、不明。 |
| ○太秦桂ヶ原町 | 京都府 京都市 右京区 太秦桂ヶ原町 |
広隆寺の門前。 葛原親王建立伝承を持つ平等寺の旧地か? |
| ○仲野親王 高畠墓 |
京都府 京都市 右京区 太秦垂箕山町 |
仲野親王の陵墓と伝える前方後円墳。 異称:垂箕山古墳。 仲野親王は、父は桓武天皇、母は藤原大継娘・河子。 葛原親王の異母弟で、桓武平氏の祖。 古墳時代の前方後円墳に追葬したものか。 |
| ○尊重寺跡 | 京都府 京都市 上京区 紋屋町・ 杉若町・ 一色町・ 西五辻東町・ 姥ケ榎木町・ 姥ケ東西町・ 桐木町・蛭子町 |
平親信が寛仁元年(1017)以前に建立した寺。 寺領は安芸国吉茂庄、加賀国能美庄。 建保二年、平親範により、葛原親王が太秦に建立した平等寺、 尊重寺(平親信が五辻に建立)、護法寺(平範家が伏見に建立)を合併し、 出雲路に護法山出雲寺(毘沙門堂)が建立された。 |
| ○出雲寺跡 | 京都府 京都市 上京区 毘沙門町 |
建保二年、平親範により、葛原親王が太秦に建立した平等寺、 尊重寺(平親信が五辻に建立)、護法寺(平範家が伏見に建立)を合併し、 出雲路に護法山出雲寺(毘沙門堂)が建立された。 毘沙門堂門跡の旧地。 のちに山科に移転。 |
| ○大蔵省跡 | 京都府 京都市 上京区 一番町・ 二番町 |
延暦二十五年(806)〜大同三年(808) 四品葛原親王、大蔵卿に。 |
| ○正親司跡 | 京都府 京都市 上京区 東竪町・西町 下竪町 |
天長五年(828)、式部卿葛原親王の推挙により、有雄王、正親佑となる。 |
| ○平安京平安宮 内裏清涼殿跡 |
京都府 京都市 上京区 田中町 |
延暦十七年(798)、大伴親王(のちの淳和天皇)・葛原親王、殿上において加冠。 |
| ○平安京平安宮 内裏紫宸殿跡 |
京都府 京都市 上京区 田中町 |
承和八年(841)仁明天皇により、紫宸殿において、侍臣以上に宴を賜る。 一品葛原親王、右大臣正三位源朝臣常、殊に御衣一襲を賜る。 |
| ○中務省跡 | 京都府 京都市 上京区 中務町 |
弘仁十四年(823)二品葛原親王、中務卿兼大宰帥に。 中務卿任命の翌日、葛原親王の同母弟である佐味親王が中務卿となり、 二品葛原親王は、弾正尹兼大宰帥に。 |
| ○平安京平安宮 朝堂院跡・ 大極殿跡 |
京都府 京都市 上京区 主税町・ 中京区 聚楽廻東町 |
承和十年(843)、一品式部卿葛原親王、 子の従三位大蔵卿平朝臣高棟を遣わし、朝堂に抗表する。 |
| ○平安京平安宮 豊楽院跡 |
京都府 京都市 中京区 聚楽廻西町 |
天長八年(831)、豊楽院において、二品葛原親王、一品に。 |
| ○治部省跡 | 京都府 京都市 中京区 西ノ京 内畑町 |
延暦二十二年(803)〜延暦二十五年(806) 四品葛原親王、治部卿に。 延暦二十四年(805)卿四品葛原親王、従四位下行大輔和気朝臣入鹿麻呂、 少輔従五位下藤原朝臣友人により、入唐僧最澄・義真に対して治部省牒発注。 葛原親王の後任は、三品大伴親王(のちの淳和天皇)。 |
| ○弾正台跡 | 京都府 京都市 中京区 西ノ京 内畑町 |
大同三年(808)〜弘仁元年(810) 四品葛原親王、弾正尹に。 大同四年(809)より葛原親王、三品に。 弘仁十四年(823)〜二品葛原親王、弾正尹兼大宰帥に。 天長二年(825)二品行弾正尹兼大宰帥葛原親王の上表により、 葛原親王の子女に平朝臣賜姓。 |
| ○式部省跡 | 京都府 京都市 中京区 西ノ京 式部町 |
弘仁元年(810)〜三品葛原親王、式部卿に。 弘仁三年(812)〜式部卿三品葛原親王、大宰帥を兼任。 弘仁七年(816)三品葛原親王、二品に。 天長五年(828)式部卿葛原親王の推挙により、有雄王、正親佑となる。 天長七年(830)二品葛原親王、式部卿に。 天長八年(831)二品葛原親王、一品に。(豊楽院において) 承和五年(838)〜一品葛原親王、式部卿のまま上野太守を兼任。 |
| ○左京二条二坊 | 京都府 京都市 中京区 二条城町付近 北西:中御門大宮 南西:二条大宮 南東:二条西洞院 北東:中御門西洞院 |
大宮大路の東、中御門大路の南、西洞院大路の西、二条大路の北の範囲。 天長二年(825)葛原親王の上表により、平朝臣を賜姓された 葛原親王の子の平高棟は、左京二条二坊に貫く。 |
| ○左京三条 | 京都府 京都市 中京区 北西:二条朱雀 南西:三条朱雀 南東:三条東京極 北東:二条東京極 |
承和十四年(847)従三位平朝臣高棟家令である肥後国飽田郡人 正七位上建部公弟益男女等五人、長統朝臣を賜り、 左京三条に貫附する。 |
| ○左京七条 | 京都府 京都市 下京区 北西:六条朱雀 南西:七条朱雀 南東:七条東京極 北東:六条東京極 |
承和元年(834)、常陸国人である外従五位下有道宿祢氏道の本居を改め、 左京七条に貫附する。 |
| ○教王護国寺 (東寺) |
京都府 京都市 南区 九条町 |
通称:東寺。西寺とともに平安京の王城鎮護の寺。 弘仁十四年(823)、空海、嵯峨天皇より東寺を供預。 天長三年(826)、東寺別当空海の奏上による東寺請曳材状案。 幢柱十六枝の第六材を弾正尹親王(葛原親王)、十二月一日。 第七材を式部卿親王(万多親王)、十二月二日。 第八材を前弾正尹親王(明日香親王)、常陸守親王(賀陽親王)、 前権帥親王(阿保親王)、十二月二日。 第九材を上総守親王(仲野親王)、上野守親王(葛井親王)、十二月二日。 に要請。 |
| ○護法寺跡 | 京都府 京都市 伏見区 (所在不明) |
平範家により伏見に建立した寺。 応保元年(1161)、隆賢阿闍梨の領地である北石倉に移転。 応保二年(1162)、隆賢阿闍梨を別当職に補任。 長寛元年(1163)、山門衆徒により焼き討ちにあう。 永万元年(1165)、平親範により、大原・来迎院に仏像を移す。 建久六年(1195)、平親範により、出雲地(出雲路)に移転。 寺領は、伏見、但馬国木前庄、伯耆国宇多川東庄、伯耆国天送(矢送)庄。 建保二年(1214)、平親範により、葛原親王が太秦に建立した平等寺、 尊重寺(平親信が五辻に建立)、護法寺(平範家が伏見に建立)を合併し、 出雲路に護法山出雲寺(毘沙門堂)が建立された。 |
| ○毘沙門堂門跡 | 京都府 京都市 山科区 安朱稲荷山町 |
伝教大師最澄が比叡山根本中堂本尊薬師如来の余材をもって 毘沙門天を刻み、桓武天皇に奉献された毘沙門天を祀る。 桓武天皇は大変お喜びになり、宝冠の中に納めて肌守りとし、 桓武天皇第二皇子葛原親王が佛道に入った時?、 桓武天皇より尊像を受け、伝教大師最澄が唐から帰朝すると、 延暦二十四年(805)十月三日、葛原親王のために徐災招福の法として、 唐より将来された鎮将夜叉法と云う秘法を伝授した。 建保二年、平親範により、葛原親王が太秦に建立した平等寺、 尊重寺(平親信が五辻に建立)、護法寺(平範家が伏見に建立)を合併し、 出雲路に護法山出雲寺(毘沙門堂)が建立された。 |
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○龍華院 (毘沙門堂 子院) |
京都府 京都市 山科区 安朱稲荷山町 |
葛原親王ゆかりか? 葛原親王が開基した群馬県沼田市の迦葉山龍華院弥勒護国禅寺 (迦葉山では葛原親王の法名は「龍華院殿清雲入道」)と名称が近似。 |
| 大阪府 | ||
| ○葛原 | 大阪府 寝屋川市 葛原 |
葛原親王の領地説あり。 まだ耕地の発達しなかったころ、クズが生い繁っていた野の説あり。 茨田親王塚と近接し、葛原親王の異母弟である万多親王の伝承と 混同の可能性あり。 |
| ○茨田親王塚・ 獅子吼山 長栄寺 (高柳廃寺跡) |
大阪府 寝屋川市 長栄寺町 |
旧茨田郡に属す。 長栄寺付近では古瓦が多く出土し、高柳廃寺と呼ばれ、茨田寺の跡との説もあり。 長栄寺の北東角に、茨田親王塚と呼ばれる場所あり。松が一本残る。 長栄寺の寺伝では、茨田親王塚は本堂の真北と伝えられ、 後世移転されたものと推定される。 茨田親王塚の伝承地である本堂の裏(真北)を掘ったところ、 火葬骨の入った凝灰岩製の蔵骨器が発見される。 現在、凝灰岩製の蔵骨器は、本堂の縁の下にあり。 茨田親王は、用明天皇の皇子である茨田皇子説と、 桓武天皇の皇子である万多(萬多)親王説あり。 延暦二十三年(804)一月二日、桓武天皇の皇子・茨田親王、 名を万多(萬多)と改める。 天長七年(830)四月二十一日、二品万多親王薨去(四十三歳)。贈一品。 桓武天皇第五皇子。母は中務大輔藤原朝臣鷲取の娘。 万多親王の薨伝の記してある『日本紀略』では、 臣籍降下した皇子(長岡岡成・良岑安世)は桓武天皇の親王として 数えておらず。 −−−→寝屋川市の葛原親王伝承は、 葛原親王の異母弟である万多親王伝承と混同によるものか。 (葛原・万多親王ともに、桓武天皇第五の皇子として伝わり、子孫は平姓を賜る。) |
| 兵庫県 | ||
| ○苅野神社 | 兵庫県 丹波市 (旧氷上郡) 柏原町 上小倉 字カツラ山 |
丹波国小椋庄に所在し、荘園領主である一品大宰帥葛原親王 (桓武天皇第三皇子)を祀る。 延喜五年(905)延喜式内社に列す。 |
| 和歌山県 | ||
| ○元智識院 持宝院 熊谷寺 |
和歌山県 伊都郡 高野山町 高野山 |
承和四年(837)、開基;葛原親王。開山;真隆阿闍梨。 法然・熊谷直実・親鸞ゆかり。 承元二年(1208)、鎌倉幕府実朝により、熊谷寺号を賜る。 承和三年(836)時点の紀伊守は、藤原豊仲。 |
| 滋賀県 | ||
| ○比叡山延暦寺 | 滋賀県 大津市 坂本本町 ・ 京都府 京都市 左京区 |
延暦四年(785)、最澄により開山。 延暦二十四年(805)、卿四品葛原親王、従四位下行大輔和気朝臣入鹿麻呂、 少輔従五位下藤原朝臣友人により、入唐僧最澄・義真に対して治部省牒発注。 最澄により、葛原親王のために徐災招福の法として、 唐より将来された鎮将夜叉法と云う秘法を伝授。 延暦二十五年(806)、大法師永忠度二人、僧最澄二人、 治部卿四品葛原親王二人賜る。 伝教大師最澄廟・慈覚大師円仁廟あり。 伝教大師最澄・慈覚大師円仁と、 葛原親王との関わりを示す寺院・伝承が全国各地に残る。 |
| 岐阜県 | ||
| ○葛原 | 岐阜県 山県市 葛原 (旧山県郡 美山町) |
葛原親王が葛原へ行幸した際、七色の桂を植樹し、七色桂の桂をとって、 桂原(かつらはら)、後に葛原と称する。 葛原親王行幸の故事より葛原と称したともいう。 また平家の落人伝承あり。山間部のため、食糧不足時、 「葛」の草を食べて生き延びたことより、葛原と称した説あり。 |
| ○桂本神社 |
岐阜県 高山市 上宝町 (旧吉城郡 上宝村) 在家 |
祭神;一品葛原親王、天津日高日子穂々出見命、豊玉姫命。 葛原親王の末裔である江馬氏の崇敬あり。 |
| ○桂本大明神宮 | 岐阜県 飛騨市 神岡町 打保 |
祭神:葛原親王。 |
| 山梨県 | ||
| ○甲斐国巨摩郡 馬相野の空閑地 |
山梨県 南アルプス市 有野付近 |
承和二年(835)、一品式部卿葛原親王に、甲斐国巨摩郡馬相野の空閑地五百町を賜る。 当時の甲斐守は、天長十年(833)に任命された藤原貞雄。 前年の天長十一年(834)の洪水は大惨事をもたらし、荒地になっていた可能性大。 承和六年(839)〜甲斐守は藤原伊勢雄。 |
| ○水宮神社 | 山梨県 南アルプス市 有野 |
水害防護の神として御勅使川近くに鎮座。 祭神;水波能命命(みずはのめのみこと)・甲斐守藤原貞雄。 天長十一年(834)の洪水は大惨事をもたらし、 復旧のため、淳和天皇より勅使が派遣。 当時の甲斐守・藤原貞雄は治水に努力し、配祀される。 |
| 群馬県 | ||
| ○上野国府跡 | 群馬県 前橋市 元総社町 |
天長三年(826)より親王任国に。 天長三年(826)〜葛井親王上野太守に。 宮鍋神社付近が上野国府正庁推定地といわれる。 天長八年(831)〜明日香親王、上野太守に。 承和元年(834)〜阿保親王、上野太守に。 承和五年(838)〜一品葛原親王、式部卿のまま上野太守を兼任。 承和六年(839)〜藤原貞吉、上野介に。 承和九年(842)〜秀良親王、上野太守に。 承和十年(843)〜藤原世数、上野介に。 承和十三年(846)〜仲野親王、上野太守に。 嘉祥元年(848)、上野国太守葛原一品親王〔龍華院殿清雲入道〕 の発願を受け、慈覚大師円仁により迦葉山龍華院弥勒護国禅寺建立。 嘉祥三年(850)〜本康親王、上野太守に。 仁寿元年(851)〜長統王、上野介に。 仁寿二年(852)〜忠良親王、上野太守に。 |
| ○小出大明神 | 群馬県 北群馬郡 吉岡町 大字陣場 字中御所 |
祭神;経津主命。 延暦十八年(799)、葛原親王により、武運長久のため勧請。 境内摂社に、衜俟神・天王宮・金比羅大権現・天神宮・大明神・雷神宮・秋葉大明神・稚蚕霊神。 弘安四年(1281)、従四位桃井播磨守小出秀政、社領を寄進。 応永四年(1397)、社殿を増築。 社殿内の木額は、新田岩松温純が天明二年(1782)に揮毫したという。 |
| ○陣場 | 群馬県 北群馬郡 吉岡町 大字陣場 |
葛原親王の陣所伝承地。 千葉左衛門常将の陣所とも、太田道灌の陣所ともいう。 陣場地内に 「中御所」(小出大明神の地) 「南御所」(小出大明神の南) の小字あり。 |
| ○迦葉山龍華院 弥勒護国禅寺 |
群馬県 沼田市 上発知町 |
嘉祥元年(848)に上野国太守葛原一品親王〔龍華院殿清雲入道〕の 発願を受け、慈覚大師円仁により建立。 菊紋・菊水紋の服を着た大権さま風の木造は、葛原親王か? ここでは、読み方は「かどわら」となる。 |
| ○高王山城跡 | 群馬県 沼田市 石墨町・ 発知新田町 |
嘉祥年間、葛原親王が迦葉山を開基した折、 葛原親王の家臣である迦葉田五郎を配置。 高見王・高望王(平高望)による築城説あり。 |
| ○利法山禅定院 功徳寺 |
群馬県 沼田市白沢町 (旧利根郡 白沢村) 大字尾合 字中村 |
承和十四年(847)十一月十五日、 前上野太守一品式部卿葛原親王の台命を受け、 下野の円仁法印(慈覚大師)により 東国巡錫の折、利根郡大藍牧に一寺を建立。 新治・大塩付近より移転した説あり。 |
| ○八幡三柱神社 (尾合神社) |
群馬県 沼田市白沢町 (旧利根郡 白沢村) 大字尾合 字中村 |
祭神:日本武尊・誉田別命・葛原親王。 大藍牧関連か。 上野神名帳に「従四位上野王明神」と掲載している社と同一説有。 |
| ○大藍牧 | 群馬県 (比定地 諸説あり) |
群馬県沼田市白沢町(旧利根郡白沢村)大字尾合付近とも、 群馬県みなかみ町(旧利根郡新治村)大字布施字大塩付近とも。 |
| ○浄華山善福寺 | 群馬県 利根郡 片品村 大字花咲 字上山崎 |
開創は元暦甲辰年、阿甫上人呑空大和尚により開山。 開基は桓武天皇の皇子・多嘉見王(法諡・朝見院殿一品法親王尊位)。 元暦年間と、桓武天皇の皇子との年代差あり。 高見王(桓武天皇の孫)または、葛原親王との関わりありか? |
| ○五霊神社 | 群馬県 利根郡 片品村 大字土出 字古仲 |
祭神:鎌倉権五郎景政 大巳貴命・天児屋根命・豊城入彦命・葛原親王・日本武尊(以上五霊神) 土出・古仲多目的集会所の北にあり。星野氏の祭神。 八幡太郎義家が奥州征討の際、景政も従い、大水のため、当地に長くとどまる。 その際、景政、星野某の娘と通じ、三人の子が生まれる。 男子一子が星野氏の祖という。 |
| ○上野国 利根郡 長野牧 |
群馬県 (比定地 諸説あり) |
弘仁二年(811)、上野国利根郡長野牧を、三品葛原親王に賜る。 葛原親王、大宅久之をもって、長野牧の牧監とし、 あわせて上野国利根郡を安撫す。 大宅久之は牧場の中西(大宅地・大谷地)に住す。 群馬県みなかみ町(旧利根郡月夜野町)上牧・下牧付近とも、 群馬県沼田市上久屋町・久屋原町・下久屋町付近とも。 |
| ○牧野神社 | 群馬県 みなかみ町 (旧利根郡 月夜野町) 大字下牧 字諏訪原 |
祭神:建御名方命・誉田別命・大日霊命・大山祇命・素盞鳴命・保食神。 寛平元年(889)四月、大宅真久、上野国利根郡に 長野大神宮(牧野神社の前身)を創建。 大宅真久は、長野牧牧監の大宅久之の子。 |
| ○大宅地 (大谷地) |
群馬県 みなかみ町 (旧利根郡 月夜野町) 下牧 |
長野牧牧監の大宅氏の居住地伝承地。 葛原親王、大宅久之をもって、長野牧の牧監とし、 あわせて上野国利根郡を安撫す。 大宅久之は牧場の中西(大宅地・大谷地)に住す。 |
| 神奈川県 | ||
| ○座間 | 神奈川県 座間市 |
桓武天皇の皇子葛原親王が万民撫育のため東国に下向し、座摩の大祭を 教示したため、高座郡といい(皇子の御座所を岩座または高座という)、 高座郡の中央につき、摩の一字を間に替え、座間と称すともいう。 |
| ○鈴鹿明神社 | 神奈川県 座間市 入谷一丁目 |
祭神:伊邪那岐命・素戔鳴尊。 欽明天皇の御代(531)に建立。 天平年間、鈴鹿王の所領(土甘郷)ともいう。 |
| ○皇子塚 | 神奈川県 綾瀬市 深谷 |
葛原親王の塚伝承あり。昔は大きな塚で金の簪が出土したともいう。 |
| ○垂木御所跡 | 神奈川県 藤沢市 葛原 字塩井淵・中村 |
垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望(武蔵守平公雅と同一とも)が、 平安時代に葛原の地を私領し、御所を垂木御所と称する。 一説に葛原親王の御所とも。 塩汲井(塩井淵に旧在。現存せず)付近が葛原親王の御座所・垂木御所という。 垂木主膳正が塩を井戸から汲んだことより塩汲井との伝承あり。 垂木御所跡に「葛原親王」のお宮あり。中村公民館の隣。 神奈川中央バス・谷戸入口バス停(葛原親王のお宮・中村公民館の入口)〜 出荷場前バス停(葛原前田信号)付近が御所の範囲か? 「葛原前田」は、葛原親王の垂木御所前(「前田」)に位置していることに 関連するものか?――→※平公雅(公正・公雄・忠望)の記事へ |
| ○家中庭 | 神奈川県 藤沢市 葛原 字家中庭 |
垂木御所従臣の居住地。 |
| ○セイメイノ カケハシ |
神奈川県 藤沢市 葛原 字西山田・前田 |
一色川(別称;前田川)に架橋。皇子大神に通じる道にあり。 橋の礎石らしきものが残っていたといわれるが、掘っても掘りきれないといい、 手をつけてはいけない伝承あり。 葛原親王の「セイメイ」(宣命・勅命)より変化したとも、 陰陽師安倍晴明が雨乞いした地ともいう。 |
| ○皇子大神 | 神奈川県 藤沢市 葛原 字葛野 |
祭神;葛原親王。 葛原親王が相模国下向した際、この地におられたので、「高倉郡葛原村」となる。 そして葛原親王の御座所より、高座郡の名が起こる。 葛原親王の故事より、葛原(クズハラ)と称する説あり。 また、葛原親王の玄孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望 (武蔵守平公雅と同一とも)が、葛原親王を鎮守として崇め、 王子権現として祀ったため「葛原」になったともいう。 ――→※平公雅(公正・公雄・忠望)の記事へ |
| ○滝不動 | 神奈川県 藤沢市 葛原 字滝谷 |
明滝山長盛寺の後身。 寛永元年(1624年)、地頭長田権三郎重正により建立。 正保三年(1643年)に没した僧祐栄により開山ともいう。 長田氏祈願所となる。 皇子大神の別当寺。 |
| ○葛原 瑠璃光山 医王寺 |
神奈川県 藤沢市 葛原 (所在不明) |
垂木御所後室の開基。恵心作の薬師を祀る。 |
| ○萬年山 昌寿院 乗福寺 |
神奈川県 藤沢市 葛原 字女坂 |
垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望(武蔵守平公雅と同一とも) 及び忠望の末裔である長田一族の菩提寺。 万寿・長元年中、垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望により開基。 忠望により仏師定朝の観音像を堂内に安置 葛原を治めた平忠望夫妻の五輪塔及び長田一族の墓所あり。 江戸時代には葛原親王の五輪塔があったともいう。 忠望……長元二年(1029年)六月一日没。 法名;乗福寺殿万年鶴公大禅定門 忠望室…長元十年(1037年)二月十日没。 法名;昌寿院殿天長亀清大禅尼(大禅定尼か?) 旧地は南葛野交差点付近(神奈川県藤沢市葛原字中村)。 ――→※平公雅(公正・公雄・忠望)の記事へ |
| ○聖台 | 神奈川県 藤沢市 葛原 字聖台 |
葛原親王の御座にちなむ。 |
| ○御所見塚 | 神奈川県 藤沢市 菖蒲沢 |
葛原親王が垂木御所を眺めたという伝承あり。 菖蒲沢の塚(御所見塚)より垂木御所を眺めることができたので、 御所見塚と称したともいう。 「御所見」の地名は、御所見塚より発する。 直径10数m、高さ5m程の塚であったが、工業用地として整地され、 御所見塚にあった碑(「大正二年法皆方霊神五月」)が 湘南ユニテック藤沢工場内に祀られる。 |
| ※葛原親王と 「葛野」について |
葛野・・・@平安京の所在地(山城国葛野郡)。 葛原親王の父である桓武天皇により、長岡京より遷都される。 A一説によると、葛原親王の妻である藤原真子(藤原道雄の娘)の 叔父は、遣唐使で知られる藤原葛野麻呂。 また一説によると、藤原葛野麻呂の孫娘(藤原是緒の娘)は、 高見王(葛原親王の子)の妻で、平高望の母。 B「千葉の」の枕詞→「葛野(かどの)」 千葉は、たくさんの葉の意味。 葛は、葉が多いことから関連して「葛野(かずの)」という地名に 掛かるようになる。 →桓武平氏良兼流・長田氏の影響か? ――→※平公雅(公正・公雄・忠望)の記事へ |
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| ○村岡城址 | 神奈川県 藤沢市 村岡東三丁目 |
村岡五郎良文(葛原親王の曾孫)の居城。 村岡良文により、高座郡葛原皇子神社が村岡郡に分祀される。 |
| ○戒法院 宝国山 二伝寺 |
神奈川県 藤沢市 渡内三丁目 |
村岡五郎良文(葛原親王の曾孫)・三浦忠光・忠通の墓所あり。 北条氏時の開基。 |
| ○宮前御霊神社 | 神奈川県 藤沢市 宮前 |
祭神;崇道天皇(桓武天皇の皇太弟・早良親王)・ |
| ○梶原・ 御霊神社 |
神奈川県 鎌倉市 梶原一丁目 |
祭神;鎌倉権五郎景政(景正) |
| ○葛原岡 (くずはらがおか) |
神奈川県 鎌倉市 山ノ内・ 扇ガ谷四丁目・ 梶原五丁目 |
葛原親王の末裔である梶原景成により、葛原親王を祀ったことに由来するという (詳細不明)。 景成は、景正の父であるといわれるが、鎌倉一族の系図に混乱多く、詳細不明。 @平高望―良文―忠光―忠通―景通―景正(景通の子である説) A平高望―良兼―公雅―致成―景成―景正 B平高望―良文―忠光―忠通―景通―景成―景正(景成の弟とも) C平高望―良茂―良正(良茂の弟とも)―致成―景成―景正 |
| ○八坂神社 | 神奈川県 鎌倉市 扇ガ谷一丁目 |
祭神;素戔嗚尊・桓武天皇・葛原親王・高望王・相馬師常 別称;相馬天王・八坂大神 葛原親王の末裔である相馬次郎師常(千葉常胤の子)により、 建久三年(1192年)屋敷地内に牛頭天王を勧進。 もと巽荒神の地にあったが、江戸時代に現在地に移築。 |
| ○皇女神社 | 神奈川県 横浜市 栄区 公田町 |
祭神;照玉姫(葛原親王の皇妃)。 別称;上臈塚・女臈塚・皇女御前神社・皇の御前塚・王之御前神社。 祭神である照玉姫は、夫君の葛原親王に従い、東国へ下る。 そして照玉姫は、天長元年(824年)九月二八日、当地において没する。 里人により塚が築かれ、上臈塚・皇の御前塚・女臈塚と称される。 のちに文禄元年二月、僧侶・信永により社が建立される。 一時、近くの桂公田神明社に合祀されたが、再び勧請される。 付近に桂町や、平台(たいらだい)あり。葛原親王ゆかりの地名か? ※一説に葛原親王室は、藤原道雄の娘・真子(平高棟・高見王の母)。 →照玉姫と同一か否かは不明。 |
| ○両塚明神 | 神奈川県 横浜市 栄区 公田町付近か? 所在不明 |
葛原親王の皇妃・照玉姫の侍女である相模の局と大和の局は、 照玉姫没後、尼となり、塚守となる。 のちに、相模の局・大和の局が相次いで没し、照玉姫の塚の傍らに埋葬し、 両塚明神として祀る。 |
| ○桂公田神明社・ たいら台(平台) 公園 |
神奈川県 横浜市 栄区 公田町 |
葛原親王伝承地か? 桂公田神明社に、一時、皇女神社(祭神;葛原親王皇妃・照玉姫)が合祀される。 付近に桂町、皇女神社あり。 |
| 東京都 | ||
| ○葛原神社 (かつはら) |
東京都 品川区 荏原六丁目 |
弘治二年(1556)一月一日、鏑木守憲(千葉氏一族)により、 葛原親王(かつはらしんのう)を祀り、 さらに妙見菩薩(北斗七星の神格化で葛原親王の守護神)を勧請。 ←妙見信仰は葛原親王の代まで遡ることに。 ※天文七年(1538)十月、千葉氏の一族である鏑木四郎胤憲 (下総国塞川に住。寒川か?)、国府台にて戦死。 子孫である鏑木外史(外記か?)入道親次、荏原に移住。 親次の子である守憲により、弘治二年(1556)一月一日、社殿を建立。 北条氏より当地開墾の免状を賜り、一族、中延村に定住。 |
| 千葉県 | ||
| ○下総国府跡 | 千葉県 市川市 国府台一丁目・ 二丁目付近 |
天長十年(833)、常陸国筑波郡の人である散位正六位上丈部長道、 一品式部卿親王家令外従五位下丈部氏道、下総少目従七位下丈部継道、 左近衛大初位下丈部福道の四人に、有道宿祢の姓を賜る。 |
| ○葛原牧 | 千葉県 香取市 (旧佐原市・ 香取郡 小見川町) 付近 |
葛原親王の所有伝承あり。 |
| ○綱原稲荷 大明神 |
千葉県 香取市 (旧佐原市) 多田 |
多田新田付近(旧綱原)は、旧葛原牧付近という伝承あり。 「綱原」は「葛原」より変化したという。 |
| ○王宮台 (大宮台) |
千葉県 香取市 (旧香取郡 小見川町) 白井 |
葛原親王と、平将門もしくは将門の子の伝承と混同あり。 御門・王塚・宮ノ下などの地名が付近に残る。 |
| ○王宮台祠 | 千葉県 香取市 (旧香取郡 小見川町) 白井 |
葛原親王を祀る。平将門を祀るとも。 |
| ○星宮神社 | 千葉県 香取市 (旧香取郡 小見川町) 白井 |
葛原親王により勧請。平将門により勧請されたとも。 |
| ○成東八幡神社 | 千葉県 山武市 (旧山武郡 成東町) 大字成東 字根蔵 |
天安元年(857)葛原親王の第二皇子・兼高親王、故ありて下向。 天安二年(858)九月十一日、 兼高親王により一宇神殿を造り、神鏡を納め、勧請。 葛原親王による勧請説あり。 祭神:応神天皇(譽田別尊)、 毘め大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命) 神功皇后(息長帯比賣命) 境外末社:疱瘡神社・浅間神社・日吉神社・愛宕神社・浅間神社・道祖神。 成東八幡神社の付近には、 延長六年(928)、平将門により堤「将門堤」が築かれたといわれ、 成東八幡神社には、平将門奉納の獅子一駆があったといわれる。 兼高親王が下向したといわれる天安元年は、 高見王の没年ともいわれ、 高見王の娘である平政子(真砂子・砂子)が 東国下向の折、相模国平塚で没した年でもある。 |
| 茨城県 | ||
| ○常陸国府跡 | 茨城県 石岡市 総社一丁目・ 二丁目付近 |
天長三年(826)より親王任国に。 天長三年(826)〜賀陽親王常陸太守に。 天長七年(830)〜承和元年(834) 葛原親王、常陸太守を兼任。 天長七年(830)二品葛原親王、式部卿に。 天長八年(831)二品葛原親王、一品に。(豊楽院において) 天長六年以降の常陸介は、伴友足。 天長年中、高階石河、常陸介に。 承和元年(834)〜葛井親王、常陸太守に。 承和元年(834)〜永野王、常陸介に。 承和五年(838)〜忠良親王、常陸太守に。藤原貞公、常陸介に。 承和六年(839)〜紀盛麻呂、常陸介に。 承和八年(841)〜藤原春岡、常陸介に。 承和十一年(844)〜葛原親王、常陸太守を兼任。 承和十三年(846)〜藤原菅雄、常陸介に。 嘉祥二年(849)〜紀全法、常陸介に。 嘉祥元年(848)〜時康親王、常陸太守に。 仁寿三年(853)〜藤原正世、常陸介に。 仁寿三年(853)〜仲野親王、常陸太守に。 |
| ○筑波郡 | 茨城県 つくば市 付近 |
筑波郡衙跡はつくば市平沢の平沢官衙跡。 天長十年(833)、常陸国筑波郡の人である散位正六位上丈部長道、 一品式部卿親王家令外従五位下丈部氏道、下総少目従七位下丈部継道、 左近衛大初位下丈部福道の四人に、有道宿祢の姓を賜る。 |
| 高知県 | ||
| ○土佐国府跡 | 高知県 南国市 比江 |
承和十五年(848)、従五位下秦忌寸福代、 一品葛原親王家令のまま、土佐大目を兼任。 |
| 福岡県 | ||
| ○大宰府跡 | 福岡県 太宰府市 観世音寺 四丁目 |
弘仁三年(812)式部卿三品葛原親王、大宰帥を兼任。 嘉祥三年(850)、大宰帥三品葛井親王薨去(五十一歳)。 嘉祥三年(850)〜一品葛原親王、大宰帥に。 |
| ○観世音寺 | 福岡県 太宰府市 観世音寺 五丁目 |
日本三大戒壇の一。 天智天皇により創建。 筑紫・観施音寺(観世音寺の誤りか?)の如意輪尊が、 大同三年(808)、常陸・小幡の観音寺に移されたという。 |
| 佐賀県 | ||
| ○葛原神社・ 親王塚古墳 |
佐賀県 東松浦郡 北波多村 田中 |
祭神;葛原親王。 相殿に応神天皇、神功皇后、武内宿禰。 嘉暦二年(1327)の創建で、親王塚古墳の上に鎮座。 葛原を「クズワラ」と読む。 葛原親王が大宰帥として大宰府に赴任し、この地で薨去したという伝承あり。 通称「田中の権現様」。 親王塚古墳は、周囲310m、高さ13mの大円墳で,7世紀の造営と推定。 竪穴式古墳で、石室の側より鉄刀・鉄鏃・須恵器・漢式白銅鏡等出土。 出土品は石室に戻され、八角形の石垣で石室を保存。 円丘全体が一大古墳と考えられており、葛原親王の墓所伝承あり。 通称「盛立の山」 徳須恵バス停付近。 |
| ○田中島村城 | 佐賀県 東松浦郡 北波多村 田中付近か? |
『松浦古事記』に、葛原親王甲寅八月入部(中略)十六歳にして田中島村城を築く。 の記事あり。 甲寅の年は、天長十一年・承和元年(834)で、葛原親王は四十九歳。 天長十一年・承和元年当時、葛原親王は、一品式部卿。 |
| ○波多八幡神社 | 佐賀県 東松浦郡 北波多村 稗田字畑中 |
祭神;神功皇后、応神天皇、武内宿禰。相殿に葛原親王、菅原道真を祀る。 正暦五年(990)、肥前国に下向した渡辺源五綱により建立。 |