| 平公雅(公正・公雄・忠望) (村岡公致?) | |||||
武蔵守平公雅 |
平(粟飯原)良兼の子。 安房守・武蔵守・右衛門少尉・ 従五位上・従四位下。 相模国高座郡葛原 (神奈川県藤沢市)では、 垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望と同一といわれる。 汲沢五霊神社の祭神として、 村岡公致(公雅)(平良文弟良兼子)が祀られる。 ※公雅の孫(致頼の子)に「公致」あり。 |
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| 父 | 母 | 兄弟 | 妻 | 子息 | |
| 平良兼 | 不詳 父・良兼の妻に 源護の娘 (公雅の母であるか 否かは不明)。 |
公連、 公元、 良定、 盛家、 女子(一説に平将門室)。 |
平忠望室 昌寿院殿 天長亀清大禅尼 公雅室 致頼母は 鎮守府将軍 陸奥守 平良繇の娘 ともいう。 |
致秋(致利)、 致成、 致頼、 致遠、 入禅、 平(千葉)忠常室常将母。 |
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| 資料が少ないため、詳細は不明であるが、 公雅は、将門に好意的態度をとり、 将門の外孫である平(千葉)忠常に娘を嫁がす。 平将門は幼時、公雅の父である良兼の所領で 生まれ育った説(東金付近の伝承)あり。 |
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| 延長九年 (931年) |
染谷川の戦いの時点では、 父・良兼は、叔父の良文とともに将門を助け、 伯父・国香と戦っていたとされる(異説あり)。 |
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| 承平五年 (935年) |
国香没後、良兼は族長として、 叔父・良正、国香の子・貞盛、 良兼・良正・貞盛の岳父・源護に頼られ、 将門と戦うようになる。 戦う契機として、女論説あり。 公雅は、良兼軍として従軍していた可能性あり。 |
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| 承平七年 (937年) |
堀越の渡しの戦い後、葦津江で、 良兼により捕らえられていた 平将門の妻(公雅の姉説あり)を、 公雅ら兄弟により、将門のもとに逃がした説あり。 ※平将門の正室は平真樹の娘・君の御前。 同十一月五日、良兼、公連(公雅の弟)、 源護、平貞盛、秦清文とともに、官符が下される。 |
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伝・平良兼墓所 |
天慶二年 (939年) |
六月、良兼没。 良兼墓所は、筑波・薬王院近くの大日窟。 良兼没後、貞盛は、公雅を頼らず、 知音である平維扶を頼ろうとしたが、失敗する。 良兼没後、公雅は、将門との戦いに参加しなくなる。 |
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![]() 大権さまと将門位牌 |
天慶三年 (940年) |
一月十四日、公雅は、東国掾に任じられる。 同二月十四日、平貞盛・藤原秀郷らにより、将門戦死。 同年、公雅により将門近臣・興世王を討つ説があるが、 藤原公雅による説が有力。 |
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| 天慶四年 (941年) |
東金・御門付近の伝説として、 平将門が戦死せずに、東金・御門に逃れ、 天慶四年に没したという。 東金・御門付近は、旧・平良兼領か? 天慶四年現在、東金・御門付近は、 平公雅あるいは平(村岡)良文の勢力圏か? |
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![]() 海禅寺・将門と 七人の影武者の供養塔 |
![]() 大雄山海禅寺本堂 |
天慶三年から天慶五年(942年)の間に、 公雅は安房守に任じられる。 平良文と同様、中立を保ったことによる恩賞か。 将門没後、良兼流(武蔵・伊勢)は、 将門に好意的であった良文流(武蔵・下総・上総)と結び、 国香流(常陸・伊勢)と対立するようになる。 『千葉大系図』には、 「父良兼の領地は良文がこれを領する故に、 公雅は伊勢国郡郷を賜る。」 とする。 |
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| 天慶年中、下総国司安房守平公雅により、 下総国猿島郡上谷貝(茨城県猿島郡三和町谷貝)に 弓矢守護神として香取神社を勧請。 武蔵・下総両国の守に補任時、国内鎮護のため、 谷貝の地に鎮斉する。 |
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![]() 平将門塚 |
天慶五年 (942年) |
公雅は武蔵守に任じられる(藤原秀郷の後任)。 承平・天慶の争乱により荒廃していた 武蔵国・金龍山浅草寺、公雅により再興。 武蔵国豊島郡柴崎(東京都千代田区大手町)の 将門塚の供養が可能になったのも、この頃か? |
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| 武蔵国豊島郡柴崎の将門塚は、 神田神社(神田明神)の前身との説のある 安房神社の近くに位置していたといわれている。 |
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| 天慶八年 (945年) |
三月十八日、公雅の夢に観音様が立ち、 浅草海苔が発見される。 |
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| のちに、公雅は、『二中歴』に「武者」の一人として、 坂上田村麻呂や藤原利仁、平良文らとともに称される。 |
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| 天延二年 (974年) |
山城国祇園社 (京都府京都市東山区祇園町北側八坂神社)、 興福寺の末寺から比叡山延暦寺の末寺に。 『今昔物語集』には、 平致頼(公雅の子)・公正(公雅)は、 興福寺方の要請により出兵するも、 延暦寺方にも縁故あるため撤兵し、 興福寺の末寺から比叡山延暦寺の末寺となる。 致頼の弟の入禅は、比叡山延暦寺の僧。 当時、公雅は致頼に家督を譲っていた可能性あり? |
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| 寛弘三年 (1006年) |
『類聚符宣抄』寛弘三年三月九日条、 正六位上平朝臣八生、 陸奥国押領使に補任。 平八生は、 故武蔵守従五位上平朝臣公雅の弟である平公基(公元)の子。 公雅は、寛弘三年三月九日以前に 没していた可能性大。 |
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| 万寿四年 (1027年) |
平(千葉)忠常、上総国で挙兵。 忠常は平将門の外孫。 忠常室は公雅の娘。 |
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| 万寿・長元年中 | 相模国高座郡葛原(神奈川県藤沢市葛原字女坂)に 萬年山昌寿院乗福寺を開基 (垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望の開基)。 忠望により仏師定朝の観音像を堂内に安置という。 公雅(忠望)墓所は、 相模国高座郡葛原の萬年山昌寿院乗福寺、 長田家墓所内の五輪塔といわれる。 |
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| 長元二年 (1029年) |
忠望……長元二年(1029年)六月一日没。 法名;乗福寺殿万年鶴公大禅定門 |
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| 長元四年 (1031年) |
平(千葉)忠常、源頼信に降伏。 源頼信とともに京都に向かう途中、 忠常は、美濃国で没する。 忠常の子息である常将・常近は許される。 常将は、公雅の外孫。 |
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| 長元十年 (1037年) |
忠望室…長元十年(1037年)二月十日没。 法名;昌寿院殿天長亀清大禅尼(大禅定尼か?) |
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| 元亀二年 (1571年) |
元亀二年九月十九日、 汲沢五霊神社(神奈川県横浜市戸塚区汲沢)創建。 汲沢五霊神社(神社しおりより) 祭神:村岡五郎平良文(高望王第五子村岡郷初代城主) 村岡公致(公雅)(平良文弟良兼子) 村岡致成(平良文弟良正子) 鎌倉景成(村岡致成子) 鎌倉権五郎景政(鎌倉平景成子) 汲沢は村岡郷に属す。 |
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| 汲沢五霊神社の祭神として、 鎌倉氏の祖といわれている 良文流、良兼流、良正(良茂)流の 良文・公雅・致成・景成・景政が祀られ、 実子あるいは養子関係により結合がみられる。 ※公雅の孫(致頼の子)に「公致」あり。 |
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| 平公雅の葛原関係史跡へ(葛原親王の仮御所) ちばっちのHP(紅葉通り)へ |
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| 平成15年04月21日作成。 平成18年04月08日更新。 |
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┏━平 国香━━━━平 貞盛 ┃ ┣━平 良房 ┃ (三浦) ┃ ┣━平 良将━━━━平 将門━━━━平忠頼室忠常母 ┃ (相馬) (千葉) 藤原良方娘 ┃ ┃ ┃ ┏━女子(一説に平将門室) ┃ ┃ ┃ ┣━━━━╋━平 良兼━━╋━平 公雅━━┳━平 致秋(致利) ┃ ┃ (粟飯原) ┃ (公正) ┣━平 致成 ┃ ┃ ┃ ┃ (公雄) ┣━平 致頼 平 高望 ┃ ┃ ┃ (忠望) ┣━平 致遠 ┃ ┃ 源護の娘 ┃ ┃ ┣━入 禅 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗━平忠常室常将母 ┃ ┃ ┃ ┃ (千葉) ┃ ┃ ┃ 平忠望室 ┃ ┃ ┃ 昌寿院殿 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃(同一ヵ) ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 平良繇の娘 ┃ ┃ ┃ 平致頼母 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━平 公連 ┃ ┃ ┣━平 公元 ┃ ┃ ┃ (公基) ┃ ┃ ┣━粟飯原良定 ┃ ┃ ┗━粟飯原盛家 ┃ ┃ ┃ ┗━平 良繇━━┳━平公雅室致頼母 ┃ (桂) ┣━平 良重━━━━平 重正 ┃ ┗━平 忠光━━━━平 常高 ┃ (平良文の子ヵ) ┃ ┣━━━━━━平 良文━━┳━平 忠頼━━━━平 忠常━━━━千葉 常将 ┃ (村岡) ┃ (千葉) (千葉) ┃ ┃ ┃ ┗━平 忠光━━━━平 恒高 ┃ (三浦) 藤原範世娘 |